
ベートーヴェンの生涯は”苦難と逆境”との闘いの日々でもありました。
1770年12月16日(推定)、ドイツのボンに生まれたベートーヴェンの少年時代は、貧しく、アルコール依存症の父親に強いられ、家族を養うために音楽家として生計を立てなければなりませんでした。4歳の頃より、父親にスパルタ教育を受け、1781年からは、当時ボンの宮廷オルガニストであったネーフェにピアノ奏法(クラヴィーア、オルガン)と作曲法を師事します。ベートーヴェンはあっという間に上達し、ネーフェの助手として宮廷オルガニストの代役を任され、チェンバロ奏者を務めるようになります。また、すでに作曲の才能も発揮し始めており、ネーフェは、作品の出版のためにも尽力しました。
17歳で最愛の母が亡くなり、病気にも絶えず苦しめられます。
1792年、当時ボン大学の学生だったベートーヴェンは、ボンを訪れていたハイドンに認められ、ハイドンに師事するためウィーンへと旅立ちます。
1795年、ピアニストとしてウィーン・デビューの成功をおさめた後、作曲家としても活動を始めます。
1800年頃までのベートーヴェンは、瞬く間にウィーンの音楽界を駆け上っていったのです。
しかし、その社会的な成功の陰で、難聴はさらにひどくなり、人知れず深く悩み苦しんでいました。
・・遂には音楽家として致命的である聴覚を失うという悲劇が襲いかかります。
1802年、ハイリゲンシュタットの遺書には、ベートーヴェンの絶望の叫びが記されています。
”おお、神のみこころよ、たった一日を、真の歓喜の一日を私に見せてください!
真のよろこびのあの深い響きが私から遠ざかってからすでに久しい。
おお、わが神よ、いつ私は再びよろこびに出会えるのでしょう?
その日は永久に来ないのですか?・・否、それはあまりに残酷です!!”
しかし、ベートーヴェンは絶望の淵から這い上がり、聴覚を失って以降、さらに充実した傑作を世に送り続けたのです。
”自分の芸術で辛く困難な状況にいる人々を勇気づけたい”、”その作品を後の時代の人々につなげたい”・・その使命感を強く持ち続けたのでした。
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そのようなストイックで使命感に燃え困難と戦う一方で、いくつもの恋愛を経験し、ロマンチックで魅力的な一面もありました。結婚にあこがれていましたが、健康上のことや経済的な理由からか、生涯家庭を持つことはありませんでした。
死後、”不滅の恋人への手紙”が発見されます。宛名も書かれた日付も記されておらず、その相手が誰なのか学者たちの間で研究と論争が繰り広げられてきました。
これまでの研究で、手紙が1812年に書かれたものであること、不滅の恋人はベートーヴェンがピアノのレッスンをしていたヨゼフィーネ・ブルンスヴィック説、またはフランクフルトの富豪フランツ・ブレンターノの妻、アントーニエ・ブレンターノ説が有力であるということがわかっています。
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不滅の恋人との恋は、破局を迎え、ベートーヴェンを絶望させ、心に大きなダメージを与えます。破局後の1813年から1818年までの長い期間、ベートーヴェンの創作活動はスランプ状態に陥ります。
その原因には、ヨーロッパの政治の情勢も大きく影響していると言えるでしょう。
1814年、ナポレオンが失脚した後開かれたウィーン会議において、ベートーヴェンは参加した王侯たちを讃える曲を作り、演奏会を行い、大成功をおさめます。このことで、ベートーヴェンの名声は一気に高まり、一躍時の人となりました。ベートーヴェンは、ナポレオンの支配からの脱却こそ自由と解放がもたらされると思っていたのです。しかし、実際には時の支配者から利用されたにすぎませんでした。そのことを知って、ベートーヴェンは創造力を失ってしまいます。
ウィーン会議によって、フランス革命の精神であった、自由は奪われ、ベートーヴェンの創作活動も阻止されるようになりました。また、ウィーン会議後、ロッシーニを始めとするイタリア派の音楽が流行し、ベートーヴェンは理屈屋だと敬遠されるようになります。
健康状態の悪化に加え、弟カールの死、その息子カールの親権問題をめぐっての裁判といった家族間の不幸やトラブルにも見舞われ、1809年から有力な貴族のパトロンによって支給されることになっていた終身年金(四千フローリン)の打ち切りによって経済的にも困窮するようになります。
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1818年、スランプを脱したベートーヴェンは晩年の後期の時代へと復活の道を歩み出します。
創作意欲が戻り、次々と後期の傑作を生み出していきます。
”自由に語ったり考えたりすることが抑圧される時代”
ベートーヴェンは作品を通して自分の考えや表現を貫きました。
創作への情熱はその後亡くなるまで失われませんでした。
しかし、晩年になっても経済的な困窮は解決されず、我が子のようにかわいがっていた甥カールに裏切られ、自殺未遂騒動も起こり、苦労の連続でした。
体調はさらに悪化し、何度も手術を繰り返した後、1827年3月26日に56歳で亡くなりました。
葬儀は2万人の民衆が参列する壮大なものでした。生前の孤独と貧困の苦しみを思うと皮肉なものです…
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20代でウィーンで活動を始めてからは、生まれ故郷であるドイツのボンには一度も帰ることが叶いませんでした。しかしボンの美しい自然は、ベートーヴェンの心に生涯焼きついて、そのイメージが音楽に生き生きと表現されています。
ウィーンの社会の中では、人間関係、混乱した世の中の情勢、病気との闘いといった苦労や悩みが絶えなかったベートーヴェンですが、毎日のように郊外を散策し、自然の中でだけは、すべてから解き放たれ、安らぎを見いだすことができたのです。
”田園にいれば、私の不幸な聴覚は私をいじめない。そこでは一つ一つの樹木が私に向かって”神聖(ハイリッヒ)だ、神聖だ”と語りかけるようではないか?森の中の歓喜の恍惚?だれがこれらすべてのことを表現し得ようぞ!”
”私ほど田園を愛する者はあるまい。””私は一人の人間を愛する以上に一本の樹木を愛する…”
”自然がベートーヴェンの唯一の友であった。(テレーゼ・ブルンスヴィック)”
”彼は、自然の霊をつかんだ。(シントラー)”
”ベートーヴェンは、自然の力の一つである。(ロマン・ロラン)”
自然を愛し、人を愛し、自分の運命に立ち向かったベートーヴェン…彼の晩年の最高傑作”交響曲第9番”には、ベートーヴェンの未来へ向けてのメッセージが力強くこめられています。
”悩みを突き抜けて歓喜に至れ!!(Durch Leiden Freude!!)”
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参考文献:平野昭著:『ベートーヴェン カラー版 作曲家の生涯』新潮文庫
ロマン・ロラン著;片山敏彦訳:『ベートーヴェンの生涯』岩波文庫
小松雄一郎編訳:『新編ベートーヴェンの手紙(上) (下)』岩波文庫